山に籠る前から友達がいるようでいない人だった。
雑談というものが苦手だった。
何か目的に向かって積み上げていかないともったいない気がするしたのだ。
雑談好きな人に付き合っても損する気がしたのである。
山に籠るきっかけは下界で生きづらさを感じたからだった。
この世の中は刹那的で虚しく生きる意味を見出せない。
せっかく生まれてきたのだから、崇高な目的に向かって生きたい。
それが神仏を必要とする土台であった。
世界の真理を悟るべく修行を積み重ねていくことほど尊い生き方はないと思ったのだ。
下界で生きても、結局は消えてなくなる、虚しさが残るばかりだと思ったのだ。
しかし、山に籠って修行をしても、どこまでも真理に辿り着く気がしないし、下界では苦しんでいる人もいるのに、山でただ生きていて、何の意味があるのだろうと悩んできた。
下界において平和をなすべく実践することが最も尊いことではないかと思うようになったのである。
なので下界において平和をなそうとする会話には興味が出るが、とりとめのない話には興味が出にくい。
しかし、そもそも平和というのはとりとめのない話ができる状態のことをいうのだろう。
そのことに興味を持たなければ、結局平和を望んでいないとも言えるのではなかろうか。
よく分からなくなってきた。
とにかく下界において修行することが大切なのだと今は思っている。