SEKAINO SUKUI!宗教修行10数年の悟りの境地

山に籠って10数年。ついに下山して世の救いために説いていきます。

宗教二世問題

ちまたでは宗教二世問題が賑やかだ。

宗教を信じて献金したり、奉仕する親、大人本人は信教の自由だから、しょうがないが、自分に決定権のない子どもに宗教を強要したらかわいそうだということだ。

親は自分がやってよかったから子どもにもやらせたいと思ってやらせようとする。ただそれが子どもに強制するものであってはならない。ところがこの強制というものもどこまでが強制なのかと線引きが難しい。

それならば学校に行かないといけない、勉強しないといけない、好き嫌いせず食べないといけないといったものも、子どもが嫌がってもある程度ある意味強制させることはしょうがないと今の社会通念はなっている。ただこれは時代や人によって変わりやすい曖昧な基準だ。

ではこの強制かどうかの基準は社会通念で決まるとするならば、宗教への社会通念で宗教がどこまで強制してるのかが決定されてしまう。

日本において過去の大戦の反省から、教育勅語の議論にあるように、宗教教育が大戦へと大きな舵向けになっていたように論じられるところから、宗教教育への毛嫌い感が根強く残っている。

またオウム事件にあるように特に信仰宗教に対しては更に毛嫌い感が増しているのだ。

よって宗教と聞くと、悪いもの、黙々的に戦争など事件に向かわせるものという認識が強いので、宗教をさせようとすることは悪だとするのだ。

しかし宗教というのは社会通念や世俗的な一時的な、現実的なアプローチに待ったをかける役割がそもそもあるのだ。現実以上に理想を追求し、国家や歴史を超えて普遍的道徳観を説くものである。

宗教は宗の教えとあるように人間の根本的な考え方なのだ。

このような宗教に対する深い洞察なく、安易に判断し、必要ないとする風潮には危惧している。

宗教がなくなる世界は、現実的、刹那的、物質的な虚しい世界である。